ひと雨ごとに季節の移り変わりを感じられるものですが、外では蝉がワンワン鳴いています。蝉は地中の中で5年も6年も、それ以上の年月を過ごします。やっとの思いで地上に出て、抜け殻からはい出て蝉としての第二の人生を始めるはずが、それは迫って来た死へのカウントダウンへの始まりでもあるのです。およそ7日から10日でその生涯を全うすることになります。その短い時間の間に、子孫を残すことに没頭するのです。
それでも、不幸にして短い間の伴侶に巡り合わず、鳥に食されたり、蜘蛛の巣にかかったり、そんな蝉が多いことも事実です。あの深夜に鳴いている蝉は、そんな不幸な蝉の慟哭にも聞こえて悲しくなることがあります。
被災地の仙台、亘理町に行って来ました。以前、見た風景はそこにはありませんでした。夏の8月の今頃は、目映いばかりの青緑一色の見事な田園風景でしたが、そこは冬のような赤茶色の田園が延々続いて、季節感を失ってしまいそうになります。
我が家系の菩提寺に行って来ました。墓石がひっくり返ったり、積み重なったり、地蔵が転倒していたり、その光景をまわりに見ながらの墓参りとなりました。そして、陸に上がった数々の漁船。このまま廃船になってしまうのでしょうか。あの蝉のような悲しい鳴
き声が聞こえてくるような気がしました。
瓦礫の荒野は、その瓦礫が海沿いの海岸に集められ、うず高く積み上げられて、炭鉱の山のようにも見えました。その瓦礫の山が延々と続き、その瓦礫の隙間から聞こえる海風がヒューヒューと私の心に刺さってきます。
「ああ、近くに来ると匂った海岸近くの松原もないんだ・・。この辺には同級生の家があったけど・・。彼はどうしているだろう。無事ならいいが・・」と、傍にいた叔父に尋ねても、叔父は首を振るだけでした。
育成場で有名な山元トレーニングセンターがある亘理町の隣り山元町は、海岸からなだらかな平坦が続き、津波は一瞬にして1000人以上の人命を奪っていったそうです。
コンクリートの土台が残ったところで、中高生とおぼしき少女が、一人で何かを探し、あるいはカメラのシャッターをしきりに切っていました。
所々に残った家もあるのですが、窓が壊れ、ガラスもなく、誰も住んでいない様子。電気や水などのライフラインが回復していないので住めないという話でした。
叔父曰く「残っている家は、比較的新しく、しっかりした造り」だそうです。その残された壊れた家の壁に、一匹のアブラ蝉が悲しい声で鳴いていました。土からはい出てきた蝉は、止まる木立さえなく、同胞ともあえず悲哀の声のようにも聞こえました。
ただただ夏の太陽のギラギラした暑さは、以前とまったく同じような真夏の暑さだったように感じました。
滴り落ちる汗を拭いながら、まだ海中で瓦礫の下に眠っている行方不明者の霊に手を合わせ、被災地を後にしたのでした。