それは突然でした。16日、内外タイムスのレース部のМさんから、携帯が鳴り「アベコーさん美浦でインフルエンザが出たらしいんですよ」と。
そういえば、さっき非通知で連絡が入り、音声が聞き取り辛かったので、あまり気にも留めていなかったのだけれど、そのことだったのか、と納得。
「4頭確認されたということですが、開催中止も含めて現在、JRAと農水省が会議しているらしいのですが、その結論を待ってから発表するとのことです」とМさん。
これは大変だ!開催中止になったらどうしよう。グリーンチャンネルの「データでVANVAN」の番組が金曜・土曜と入っているし、実際、その番組用のデータの仕込みを調べて納得できたものが出来上がったというのに。ああ、携帯サイトの中止のお知らせと、お詫びをしないといけないし、メールマガジン「ウマステ」も原稿を書いて、その校正も終えて配信待ちの状態。
と、ほどなくして、農水省との会議が終わり、出走馬一覧表が出るとのことです、連絡を受けたまでは良かったものの通常より2時間近い遅れで一覧表が、FAXから顔を覗かせてきました。
さあ、それからが戦争状態。データでVANVANの電話で打ち合わせ、番組用、土曜、日曜の札幌記念を含めての新潟メイン、小倉メインの予想。ナイガイ紙の一面の予想、原稿の作成。携帯サイト、メルマガ「ウマステ」の再開連絡。
そんなこんなでバタバタしていたところに、VANVANのJディレクター氏が、金曜分の打ち合わせ、データの仕込みをほぼ終わったところで、
「アベコーさん、明日の出馬は一応、条件付きらしいですよ。これ以上感染しないという但し書きが付いているんです」
「ええ、そうなの。まだ安心はできないんですね」と私。早速、ナイガイ紙にも連絡を確認。「えっ、そうなんですか。じゃあ、まだ分からないんですね」とМ氏。
それでも、枠順付き出馬表が出る予定で、携帯サイトの新潟、小倉の予想と、原稿を夜中に一心不乱に没頭。ほぼ完成したのがもう朝の5時。
そして、すべてをかき消す携帯の着メロが鳴り響いたのが金曜の早朝。М氏から連絡で中止が決定したとか。
JRAの8月17日午前9時発表は、今週の出走を予定している競走馬163頭全頭について検査。うち29頭がインフルエンザに感染(発熱1頭)が認められた。感染拡大の防止から今週のJRA全場の開催を中止とのこと。前日の20頭と合わせて49頭に拡大。
結局、また振り出しに戻り。当然のことながらナイガイ紙や携帯の予想と原稿は、お蔵入りとなったのです。
グリーンチャンネルのJディレクター氏も「今回は残念です。」とポツリ。きっと徹夜でタイムテーブルを作り、放送作家さんと私の予想から、データを調べ上げて台本を作成していたんだろうな、と何か申し訳ない気持ちにさせられました。
☆私の人生を変えたあの年、あれから35年
1971年、年が押し詰まってきた頃、インフルエンザがもの凄い勢いで拡大。この年の有馬記念も出走予定馬が次々に回避。わずか6頭立ての有馬記念となり、女傑トウメイが優勝。同じ頃、大井競馬は開催中止に。年が明けて1972年、昭和47年。大井競馬場で90パーセント以上が感染。中央競馬も金杯が行われる1回、2回東京が開催中止に追い込まれたのです。2ヶ月も開催がないと大打撃を受けたのが他ならぬ競馬専門紙。それは死活問題でした。
このとき、きちんと給料が支払われ、賞与も出たというのがホースニュース・馬社。このことが第一の要因で、当時、私の保証人となり、馬社を勧めて頂いた馬主協会の会長の手塚栄一さん。今にして思えば、皮肉なことにインフルエンザがなければ、私がホースニュース社に入社することはなかったかも知れません。
この年の4歳(現3歳)は、史上空前の最強世代。ダービーでは武豊騎手の父、武邦彦騎手を背にロングエースがランドプリンス、タイテエムを抑えて優勝。菊花賞がイシノヒカル、有馬記念もイシノヒカル。この世代は後々まで数々の重賞をさらっていきました。1年後輩のハイセイコーやタケホープが、どうしても敵わなかったのが、世に言われた、走る哲学者ことタニノチカラ。この馬も47年組でした。もう、35年も前のことです。
当時と規模は違うとはいえ、インフルエンザで開催中止になったことで、一日も早い感染の遮断と、縮小、原因の究明、そして感染馬の早期回復を、一人の競馬ファンとして願っています。