3月11日、午後のティータイムで、コーヒーカップに口を寄せたときでした。いきなりグラグラと大きな揺れに始まり、テーブルや棚から物が落ちる音。そこへまた一段の激しい揺れ。慌ててガスの元栓を閉めたものの揺れは収まらず、まるで目眩か船酔い状態。
いつもと違う地震の揺れに不吉な予感がして、テレビのスイッチを入れたら、案の定、それは大災害の知らせでした。そして、すぐにパツンという音と同時に電気が切れて停電。
ジーンと迫り来る緊張の空気が流れて、私は咄嗟に近くにあったトランジスターラジオのスイッチを入れたのでした。
ラジオからアナウンサーは大きな地震があったことを早い口調で伝えていました。震源が東北地方の三陸沖だということも・・。それが未曾有の大災害であるということを、ラジオから知るまでは時間がかかりませんでした。
東日本大震災は宮城県の沿岸地域を中心に、岩手県の三陸海岸、福島県の太平洋沿岸、青森や茨城の広範囲に渡って想像を絶するような災害をもたらしました。後で見たテレビの画面には、現世の終末のようなおぞましい光景を映し出していたのです。マグニチュード9・0、という地球規模の激震。そして、震撼させたビルほどの津波の来襲。
私は、真っ暗な部屋で、懐中電灯と、なんとか用意できたロウソクのゆらゆらした灯かりだけが、目の前の真実として確認できたのでした。
宮城県仙台市には、親戚や友人、知人、お世話になった人がいます。小さいときに過ごした亘理町にも多くの叔母や叔父などの親戚がいるのです。シーズンになるとずば抜けて新鮮な秋刀魚を送ってくれた女川町の叔父さん。震える手でダイヤルをしても、空しいツーツー音。そして混みあっていますので後からお掛け直しを・・のテープ音。この繰り返しでした。
ラジオからは、時間と共に耳を塞ぎたくなるような悲惨な状況が伝えられてきます。物音しない真っ暗な部屋で、私には幼き日の光景が目の前に広がっていました。
「上へ上がるんだ。早く早く!」誰かの必死の声で、暗闇の世界の上に上がったとき、大きな波が足元を襲ってきました。津波でした。南米チリ沖から日本、仙台湾に到達した大津波でした。わけもわからず誰かの足にすがり付いてことを思い出しました。国内一級河川である阿武隈川も氾濫。大変な被害を出したのでした。
3月12日、亘理町のやや高台に住む叔母に、偶然にも電話が通じました。叔父は病院でしたが無事でした。
「家の中は滅茶苦茶だけど、なんとか無事に生きていますから安心して。この前、地震がきたと思ったら、まただものね。今回はちょうど庭で片付けしていたのね。地震がくる15分前くらいかしら。急に空一面に白鳥が飛び立ったのね。凄い数だったわ。そして遥か海の水平線を見たら、真っ黒な雲がどんどん広がって、これには何かが起こる前触れのような予感がして、背筋が寒くなったの。それを隣りに住む人に伝えかけたら、グラグラドーンだもの。持病の心臓発作が起きかけて・・。ちょうどヘルパーさんが来ていたから助かったようなものね」と振り返る叔母。
すぐにでも新幹線に乗って向いたかったものの東北新幹線は不通。常磐線も大変な事故で寸断されていて不通。高速道路も不通。テレビから流れてくる地獄絵図のような悲惨な映像。それを見ながらジッとしていられなくなり、携帯を取って親戚にかけてみるものの連絡が取れず。さらに友人、知人も、お世話になった人も。電話が全く通じなく、居た堪れない気持ちで、それでも諦めきれず携帯と、家の電話のダイヤルを私の手が勝手に何度も何度もプッシュしているのでした。
東西の中山、阪神競馬も開催中止となり、東京の電車もストップ。テレビの画面は都内の主要駅で自宅に戻れない人、バスやタクシー待ちの大行列。徒歩で帰宅する人。都内は大変な事態。仕方なく歩き出す人もいて、まるで戦時下の状況のようでした。
そんなことが続き時間ばかりが過ぎていく中で、ようやく連絡が取れた仙台市のMさん。電話がつながったのは奇跡に近いといいます。と、亘理町に住む叔父とも連絡がとれて無事を確認。海に近い阿武隈川の河口から津波でほとんど町は壊滅だといいます。無事な喜びと落胆。
その翌日、弟から連絡が入り、仙台市の若林区に住む叔母の次女は、家族共々無事だといいます。仙台の廣瀬川近くに住む長女夫婦も、難を逃れて避難所に移ったと聞いて、またここで一安心。同じ若林区に住む私が大変お世話になっているAさんの消息がつかめず、次女に尋ねても分からないというのです。Aさんは若林区の名取川近くに住まいを構えて被害が激しかったところ。連絡しても受話器の向うからは、施設の故障でつながらないとアナウンス。壊滅した女川町同様に、厳しい状況になったな、と溜息。
その翌日の夕方近くでした。再びAさん宅に連絡を取ったら、今度はベルが鳴りその電話に出た方が「社長夫婦は一緒にいっちゃったんです」と言うから、来たか、やはり・・「それはそれは・・」といいかけると「さっきいたんですが・・」と言うので、また聞き返すと、社長夫妻は、激流のなかを逃れて、なんとか難を逃れたということ。この津波で親戚の方が命を落とされたので、その確認に行かれたらしいのです。
そして、翌日、若林区の次女から連絡がきて、長女の娘がインターネットで探していたら、壊滅状態の女川の親戚の名前が、避難者リストに掲載されていたといいます。おお、無事だったのか。奇跡だ!まさに奇跡だ!私は心が躍りました。良かった・・。
まだ連絡が取れない友人、知人、そして親戚。きっと「無事だよ!」と連絡をくれると信じているのですが・・。
テレビの映像から流れる多くの被災された方々。家を失い、家族を失い、友人を失った、その方々の沈痛な思い。心が張り裂けそうになります。
この人たちに、再び希望と、生きる喜びと、勇気を与えるのが、私たちに課せられた使命だと考えます。
遠くタイの首都バンコックのダウンタウン、スラム街では「被災した日本を、苦しんでいる日本人を助けよう」と、募金運動が始まっています。一日一生懸命に働いて、200円、300円がやっとの貧民層の人たちです。泥で汚れた子供たちも少ないながら生活費を割いて募金に加わっているとか。100万円近くが集まっているそうです。日本人として胸が痛みます。