3月20日、東池袋大勝軒が、惜しまれながら45年という歴史に暖簾を、下ろしました。その日は、最後の日ということを前もって知っていた常連客を中心に、開店前の未明から並び始めて、開店時には延々と続く行列。そして即、オーダー・ストップ。
各テレビ局、新聞社、雑誌社、海外からもニューヨークタイムスを始めとして、どっと押し寄せたのでした。上空には取材のヘリが2機。あの報道ステーションもヘリを飛ばし、記者を派遣して取材合戦。大変な騒ぎの大勝軒閉店劇。
一軒の小さなラーメン店にこれだけのマスコミが押し寄せるというのも異例中の異例。各マスコミのインタビューにも、ひとつひとつ丁寧に答えるマスターこと店主の山岸一雄さん。人柄の良さが出ています。
一般に「つけめん」と称されるものが、この山岸さんが「中華もり」として考案。「つけめん」店の元祖なのです。
マスターとの出会いは、昭和47年、1972年のこと。大勝軒のすぐ傍に、私が入社したばかりの競馬専門紙「ホースニュース・馬」社がありました。木造モルタル3階建てで、今にも飛ばされそうな建物ながら、実にしぶとく凛として建っておりました。
大勝軒も負けず劣らず年代ものの風雪を感じさせる店構え。右隣りが「アリノス」という喫茶・軽食の店で、左が赤提灯の似合う飲み屋。いつしかこの2店舗は店をたたみ、マスターが譲り受ける形で、真ん中の大勝軒だけが営業。
当時は、馬社と大勝軒の間に、大きな材木店があり、その前が小さな公園。現在あるサンシャイン60、アルパ、ライオンズマンション、コンビニなどはありません。目の前に大きな巣鴨プリズンの跡地が広がり、薄暗く、誰かがイタチを捕まえて、鳥かごに入れていたことを覚えています。
安くて、量が多くて、うまい。大勝軒党に走ったのは、薄給の身ゆえ必然の理。私には天国のような店でした。
オカモチのしびれる重さ
とはいえ、お昼時に出前を頼んでも、届くのが2時とか3時。時には4時近くということもあったのです。中央競馬の新聞が出る当日や前日など、忙しい時間帯の馬社では、1秒を惜しむ戦争状態。空腹は時に極致に達していたはず。それでも、大勝軒からの出前が、いくら遅くなろうとも、誰一人として文句を言うことはありませんでした。
ところが、出前をしていた人が辞めたりして、人手不足になると自ら出前を取りに行く必要性が出てきたのです。じゃんけんで負けたり、私が自ら募って大勝軒に取りに行ったことも。両手に大勝軒から借りてきたオカモチ。ある時、16人分を運んだときには、頭部の筋肉がしびれて、ちぎれる思いがしました。いやあ、無鉄砲、若かったです。でも、何かあったかいものを感じる重さでした。
至福の苦しさという快感
それでも、時には大勝軒のカウンターに座り、マスターの顔を見ながら、中華もりやラーメンに、舌鼓をうったものです。私が大食漢ということを知っているマスターは、分厚くて大きなチャシューを何枚も富士山のような山盛りの麺の上に乗せ、ゆで卵や餃子も麺の下に沈んでいました。店を出るときは一気にせり出した腹を撫でながら、至福の苦しさという快感を味わったものです。
マスターは競馬が大好きでした。地方、中央競馬を問わず馬券を買っていました。競馬場に誰か行くと聞いては、馬券を頼んでいました。穴党でした。それゆえ時には、とんでもない高額の配当を手にすることも。ところがマスターは、半分近く祝儀としてあげていたこともありました。とにかく人がいいのです。
出会いから35年、名物店は暖簾を下ろしました。全国に教え子の支店が、98店舗あるそうです。その一店一店を回って歩くのが夢とか。
私の夢はマスターの足が良くなったら、大好きな競馬、競馬場に案内すること。これまで出来なかったことをプレゼントしたいのです。行徳の「ステーキ石井」のマスターにも再会させて、舌鼓をうつマスターのニコニコ印の少年のような顔を見たい。
そして、前からいっしょに応援している超人気の橘大五郎、早乙女太一の舞台をライブで見せてあげたい。その思いが、いよいよ5月20日の東京国際フォーラムで実現します。
更に、4月25日は都内のホテルで、マスターを囲んで誕生会と慰労パーティ。司会は非力ながらこの私。なにかサプライズ企画を、と考えています。
■ありがとう池袋大勝軒
「煮玉子中華そば」2007年4月30日発売 260円(税抜)
池袋大勝軒の特徴である「めんの太さ」や「もっちりとした食感」を再現したノンフライめんです。鶏がら・豚骨を炊き出した動物系のスープに、煮干・鰹などの魚介の旨みと風味を加えたダブルスープに、味付けした玉子、焼豚、メンマ、なると、ねぎ、のりを加えて仕上げました。
http://www.acecook.co.jp/newitem/april/index11.html